ノギンの泡沫投資日記

50代、年間配当69万…。住居費からの自由までもう少し、働きながら頑張るブログ。

(お盆)最後の日の10日前まで職場に通った父の話

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本日は、FIREムーブメントから最も遠いところにいた人の思い出話です。

過日に高齢で亡くなった父が、なんと亡くなる10日前まで現役で働いていました。
10日前というのは、末期癌が耐えきれなくなって遂に入院した日のことです。

と、これだけ書くと可哀想な人っぽいですが、事情はもう少し複雑でした。

 

年金開始年齢を大きく超えているのに、なぜリタイアしなかったのか。
そもそも、末期癌をそこまで差し置いて仕事するとは何事なのか。

いや、癌だということは母を含めた全員が知りませんでした。
父本人だけがそれを知っており、医師だったので、自分で自分に鎮痛薬を処方していたのです。

 

その職場は不便な場所にある診療所。
誰もそこでは働きたがらず、後継者がないことがわかっていました。

誰もなり手がいないから、明日も自分が。
いや、誰かがいればきっと別の地を探したでしょうか。

家の者に言うと、絶対に仕事を辞めて医療を受けろという話になるから、言わなかったのだと思われます。口を挟んでくれるなという、強い意志を態度で示していました。

そして事実、その診療所は父の死をもって閉院…。
殉職とはこういうことなのかと、残された家族は声も出ない思いでした。

 

職を続けるため、自身に処方していたのは対症療法の薬だけで、治療薬は使わなかったのでしょう。
思えば虫歯すら治さずに堪え忍ぶ人でした。
それもまた父のポリシーだったのだとわかります。


父は結局のところ、リタイアしませんでしたが、徹底的に自分の生き方を選び続けたという点ではひとつの理想郷にいたとも言えそうです。
時が流れてFIREという言葉を知ったとき、自分はそれを「リタイアして解放されること」とは受け止めませんでした。

自由に生きるための切符を手に入れるのだから、その先にはきっと満足と孤独があるんじゃないか。
自分以外は誰も来られない場所にいる満足と、だからこその孤独。

それは単にのんびり暮らすという意味だけでなく、ライフワークも含まれるでしょう。
孤独にはなるけれど、それがなくては生きられない。そんなものを見つけていたのだと思います。

 

そんな父も7回忌を通り越して、今やすっかり仏様。
お盆は故人を供養する区切りの時期でありますが、故人によって縁を貰った自分自身をもう一度見つめ直す場でもありますね。

自分は残念な脳で生まれてしまい、人生を選べる年齢もとうに過ぎましたが、まだ見つめ直す時間はあるでしょうか。

あるとすれば、年をとって解放されるだけではなく、もっと生きるための何かを手にできるのがよい。
そんなことを考えるお盆でした。